✲゚。.ヾ(⌒(ノ'ω')ノ☆.。

変色系男子の日常。

👶 甘えんな!赤ん坊じゃねーんだからよ!

タイトルにドキッとした方、安心してください。ただの自戒ですから。

不器用が頑張って作ったトランプタワーのように壊れやすい僕のメンタル。それを鍛えるために、今年もいろいろな哲学書や実用書を読み漁った。その中で一番効果が高かったプラクティスが「他人に期待しない」だった。

「他人に期待しない」って一見すると冷徹に思えるけど、その実は逆。相手が自分のためにしてくれたことにとても心が温められる。相手が何もしてくれなくても「なんで○○してくれないんだ」という怒りに振り回されずに済む。相手の機嫌がいいことを期待しなくて済むと、相手が不機嫌でも気にならなくなる。

相手に期待したせいで失敗したときは「甘えんな!赤ん坊じゃねーんだからよ!」と自分に言い聞かせるようにしている。できれば美しい女性にそう罵られたいと期待しながら。

f:id:quanon:20191206000218j:plain
『ムツゴロウが征く』より

🦶 地に足をつける

溺れている。もがいている。
そんなときは地に足をつけてみる。
水深は浅く、水底に足が届く。地面ののっぺりした感覚を感じる。
そうだ。「足の裏の感覚を意識しなさい」と、あの柔和な僧侶 1 も言っていた。
地に足をつける。そうすれば、また歩み出せる。
いつでも。何度でも。


  1. 『反応しない練習』の 草薙龍瞬 さん

🧬「若いなぁ」の再帰的構造について

30 歳という年齢に何か特別な意味合いがあるのだろうか。30 歳を超えると何か致命的なものが損なわれて、2 度とは戻らないことを実感するような何かが。

20 台後半から同年代が自分のことを「おじさん」「おばさん」と卑下しだす。自然とそう呼称するのなら何も耳障りなことはないけれど、ネガティブな意味を込めて卑屈に発言されるとちょっと気に触る。もちろん、同年代ゆえに自分のことを否定されているような気持ちが芽生えるのかもしれない。

会社に来ているフレッシュでやる気のあるインターン生。読書会に来る好奇心旺盛な大学生。彼・彼女らを見ると、やっぱり反応的に「若いなぁ」と感じてしまう。ふと差し込んだ朝日に思わず目を狭めるように。そして急に年をとった気分になる。結局は僕も自分の年齢を卑下する人々に属しているんだ。認めよう。こんな文章を書いている時点で。

しかし、自分が他人から「若いなぁ」と言われる場面も少なからずある。読書会などの集まりに顔を出すと、年齢が一回り以上上の人たちと接することも多いから。最近も親しい人に「○○くんは若いよ」と言われたことがあった。そんなに年齢が離れているわけでもないけれど。そして別のあるとき、カフェにいたときだったか。がやがやとした喧騒のなかでふと、老年の男性たちの立ち話が聞こえてきた。どうやら彼らはゴルフ好きのようだ。60 台の男性がそう年の離れていない別の男性にこう言っていた。「××さんは若くて羨ましいよ」。

このセリフをふと思い出したとき、ピンときた。「若いなぁ」という感嘆の声は無限に複製されていて、あらゆる世代に存在しているんだと。言う側は言われる側に回り、その構造はフラクタル模様をなしている。

そしてひとつの結論が導き出される。それは 今この瞬間が一番若い ということだ。今この瞬間が人生において最もみずみずしく、輝いている。今まさにこの瞬間も失われている「若さ」を無駄にしている時間はない。だからといってこの瞬間にすべてを投げ出して旅に出るわけではないけれど、まあ年齢に対して執着することもないでしょう。

最後にショーペンハウアーの僕の大好きなとある文章を残して終わろう。悲観的な彼のイメージが覆るほどに輝かしい金言だ。

今冷やかに見過しているこの現在、一刻も早く去ってしまえばよいなどといらだたしく後押ししても追い払ってしまいたいこの現在が、かりにも我慢のなる程度のものならば、たとい日常平凡の現在であっても、それはあの神々しい過去のなかへ今まさに移りゆこうとしているのであって、神々しい過去のなかに繰りこまれた後には恒常不滅の光明に包まれて末ながく記憶にとどめられ、後日、ことに苦難にのぞんで、記憶がその帷をかかげるとき、切実な憧れの対象となって現われるのであろうということを、いつもいつも肝に銘じて、この現在に敬意を払うようにするがよかろう。

アルトゥール・ショーペンハウアー『幸福について―人生論―』より

🏛️ 歴史は螺旋

時間は直線状に進む。相対性理論を考慮すると、完全な直線ではないかもしれないが。しかし歴史は直線ではない。歴史は螺旋だ。

現在は前世紀に創始されたアドラー心理学が流行り、紀元前にブッダが実践した瞑想方法がリバイバルされている。孔子の『論語』はあらゆる時代で読み継がれている。古代ギリシア時代の困った性格の人々について書かれた『人さまざま』という本を読むと、昔も今も人間の本質は何ら変わっていないことがわかる。「歴史は繰り返す」というのは言い得て妙だ。

繰り返すからといって、歴史は円ではない。どんな時代でも、人々はよりよく生きようと絶えず努力してきた。そのおかげで技術は発展し、基本的人権が尊重されるようになった。つまり、歴史は上に向かって進んでいる螺旋のようなものだ。繰り返しながらも進歩している。そう考えると、過去にも親しみが持てるし、未来に前向きになれる。

🧠 メタ認知

「人生をロールプレイングゲームだと捉えてみなさい」

くよくよと悩む自分の性格が嫌いだという相談者さんに対して、高須幹弥 先生は YouTube 動画でそうアドバイスしていた。ロールプレイングゲームでボスに負けたらといって、何日もくよくよと悩む人はいないだろう。装備やアイテムを整えたり、弱い敵との戦闘を繰り返して経験値を貯めたりという対策を取るのが普通だ。しかし、それが自分の人生の問題となるとくよくよと悩んでしまう人が多いだろう。ご多分に漏れず僕もそのひとりだ。

自分のことを主観的ではなく客観的に捉える考え方を メタ認知 という。自分の失敗を客観的に捉えるのはなかなか難しいことだが、簡単に始められる方法のひとつが人生をロールプレイングゲームに例えることだろう。ボス戦で破れたなら経験値を貯めればいいのと同様に、プレゼンで失敗したのなら改善点を模索しながら場数を踏めばよいのだ。

同様に、自分が混乱しているときや不安になっているときも「自分は『混乱』や『恐怖』というステータス異常に陥っているのだと」考えるのが効果的かもしれないと僕は考えた。自分の状態や感情に「今自分は 〇〇 だ」と言葉で確認する方法を、仏教の ヴィパッサナー瞑想 の用語で「ラベリング」と呼ぶらしい。例えば、ファイナルファンタジーで混乱状態に陥った場合はエスナをかけてもらえばいい。スーパーマリオ PRG で恐怖状態になった場合はリフレッシュジュースを使えばいい。同様に現実世界で混乱したり恐怖したりした場合でも、友人にアドバイスを求めたりカフェで好きなドリンクを飲んでくつろいだりするという対処法があるだろう。

そういえば、以前参加した読書会で『人生ドラクエ化マニュアル』という本を紹介した人がいたことを思い出した。僕もこれからの人生をロールプレイングをプレイするように生きていきたいと誓った。早速 MP を回復するために缶チューハイを飲もうと思う。最近の研究によると、少量のお酒でも身体に毒らしく、ロールプレイングゲームに例えるなら毒薬かもしれないが。


すぐにクヨクヨ悩む自分の性格が嫌いです。どうしたら直りますか?高須クリニック高須幹弥が動画で解説

😇 好きでい続けなければならないという呪縛から解き放とう

愛する家族や恋人、友人、大好きな作品、大好物の料理。今大好きなものが未来もそうである保証はないし、過去に好きだったものを今も好きでいられるという保証もない。人は日々代謝を繰り返し、精神的にも肉体的にも変わっていく。その中で愛情も趣味や嗜好も、好むと好まざると変わっていく。

かつて大好きだったものを愛せなくなることは、この上なく悲しい。でも時間が不可逆なのと同様に好みの変化も不可逆であり、もとには戻らない (偶然戻ることはあるかもしれないが、それは神のみぞ知る) 。それが自然の摂理。だから、好きだったものを今もなお愛し続けないといけないと自分に言い聞かせるのはやめよう。

過去や未来に縛られず、今好きなものを最大限愛そう。それが今できる唯一のこと。好きという感情はなによりもまず自由でないといけない。

そのうえでなお、ひとつのものごとを愛し続けられるのなら、それは紛れもなく人生の宝物だ。

😞 疲れ

帰り。疲労感がすごくて人混みを避けるためにひと駅歩いた。足取りは重く、次の駅までいつもの倍くらい時間がかかった。人一倍どころか人の半分くらいしか働いていないのにここまで疲れるとは、なんという虚弱さだろう。

やっとのこと家に着く。目は荒涼なツンドラのように乾燥し、寒いはずなのに薄っすらと脂汗をかいているような気がする。意識も感覚も半オクターブずれている。疲れているととてつもなく悲観的な気持ちになるが、疲れがピークに達していると、後ろ向きなことを考える気力すらない。今は泥のように眠りたいけれど、不意にちょっとだけ文章を残したい気持ちになったのでこの日記を書いた。おやすみ世界。