曇天とおばちゃんと正月について
今日は 1 月 2 日。ちょっとした買い物のために天神に寄った。
空はどんよりと曇っており、あまり正月らしさは感じられない。しかし街は初売りで人がごった返していて、晴れやかでないあいにくの天気模様とのミスマッチが気になる。嵐の前に昆虫が大量発生している様を連想した。
正月でも天神の郵便局は営業していた。入り口でおばちゃんがひっそりと年賀はがきを売っている。暖房器具は足元のハロゲンヒーターのみで、なかなか肌寒そうだ。その表情は決して暗くはないけれど、親戚が実家に集っている中、自分だけなぜ働いているのかと、心中は不満に思っているのだろうか。正月に働く喜びを感じている人をどうしてもはっきり想像できない。
正月も絶え間なく働く人たちのおかげで社会は回っている。彼らに感謝しろなんて、殊勝なことを言う気はさらさらないけれど、でもそういう人たちがいるという事実だけでも心の片隅に留めておきたいね。
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いつものスタバ (天神のジュンク堂書店隣り) で今日は「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を読んだ。非常に印象深い内容でそれをまとめようかと思ったけれど、どうしても気力がなかった 😪
夜を這う僕と謎の明滅について
元日の夜を車で這うように走る。あたりは暗闇と静寂にすっぽりつつまれている。まるで闇夜の冷たさにさらされたアスファルトが、あらゆる光や音を吸い込んでしまったようだ。瞳に映る風景は代わり映えがしないので、自分が進んでいるかどうか分からなくなりそうだ。しかし、山の上に光る航空障害灯の明滅だけが、しっかりと時間が生きていることを教えてくれる。
夜の峠道、山の上に点滅する謎の光。長い間その正体を知らなかったのだが、最近それが 航空障害灯 であることを知った。空を飛ぶ乗り物に対して、高い建物や障害物の存在を知らせるための電灯だ。
たぶん、今日の晩のあの時間に航空障害灯というものに対して思いを馳せていたのは、この宇宙で僕だけだろう。その孤独と誇らしさの入り混じった不思議な感覚が、少しだけ心地よかった。
会話における愛情と理解について
僕は会話が苦手だというコンプレックスを抱えている。より厳密に言えば、話しかけるのはそんなに苦手ではないけれど、会話を継続させるのが苦手だと思っている。だから、僕は「懇親会」というものが、この世で一番苦手な野菜のプチトマトよりもさらに苦手だ。
少しでも克服しようと吉田尚記さんの著書を読んだりしているが、なかなか苦手意識が拭えない。
- 作者: 吉田尚記,ヤスダスズヒト
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2015/01/31
- メディア: 単行本
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コミュ障は治らなくても大丈夫 コミックエッセイでわかるマイナスからの会話力 (メディアファクトリーのコミックエッセイ)
- 作者: 水谷緑,吉田尚記
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2016/06/23
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そんな僕が、今日カフェですばらしい文章に出会った。それは昼休みに職場の近くのベローチェで、村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」を読んでいたときのことだ。
- 作者: 村上春樹
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(前略) インタヴュアーはそのインタヴューする相手の中に人並みはずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かを探り当てる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。そしてそれを探りあてることに成功すれば、質問はおのずから出てくるものだし、したがっていきいきとした記事が書けるものだ。
その文章は昨晩見たスーパームーンのように、神秘的で温かなひかりを放っているように見えた。これは村上春樹が発見したインタビューの秘訣を説明したものだけど、日常会話にも適用できると思う。吉田尚記さんも著書の中で「会話において重要なことは、たとえかりそめでも、相手に興味を持つことだ」と言っていた。確かに会話の中に、その人独自の価値観やその人の根幹をなす何かを垣間見れれば、聞き手としてはとてもおもしろいと思う。まるで、鉱脈を求めて掘り進む発掘者のようじゃないか。そして、人はたいてい自分を知ってほしいという欲求を持っているはずなので、話し手としてもこの上なくうれしいことだろう。つまり Win-Win だ。
そしてこの文章のある段落は、最後にこう締めくくられている。
それがどれほど陳腐に響こうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。
やはり大切なのは 💖 だよ!
というわけでみなさんも一緒に、普段の何気ない会話の中で、あふれんばかりの愛情と聡明な理解を発揮してみないかい?
お風呂にまつわる 2 つの洞察
久しぶりにブログを書こうと思った。なぜなら、入浴中にふと、ある考えが頭をもたげたからだ。いくつかの思考の素粒子がたまたま寄せ集まって生まれたのかもしれない。ふとした拍子で頭のなかから消えてしまいそうだったので、それらの粒子が空気中に拡散してしまわないうちに文章に書き留めておこうと思った。お風呂上がりに、よく冷えたウォッカトニックを飲みながら。
「複数の状態が重ね合わさっている」という状態があり、観測することでそれらの状態が 1 つの状態に収束するという理論*1がある。これは、観測者のいない状況下では「複数の状態が重ね合わさっている」ということであり、つまり、何かしらの不確かさが確かに存在しうるということだ。
何が言いたいかというと、僕がシャンプーをしていて目をつぶっている間に、何かしらの不確かさが存在しうるということだ。無限の可能性たちが、休日のショッピングモールで遊びまわる子どもたちのように、無秩序に存在して、うじゃうじゃと不規則に動き回っている。そういうカオスな不確かさが。そして、その不確かさは、僕が目をつぶっている間にしか存在できないのだ。
だから僕はシャンプーハットなど被らない。彼らの命が 1 ミリ秒でも長く保たれるなら、僕はお湯やシャンプーが目に入ってしみてしまう、そんなリスクを負うことすらいとわない。
湯船に使っているときが 1 日で最も思考がクリアな気がする。目覚めの良い朝も、しっかりと覚醒した日中も、こんなにくっきりとした思考は得られないと思う。ただ、よく観察してみると、クリアというよりは自由という表現の方が適切な気がする。思考があらゆる緊張から放たれて、脳内を超えて自由に飛び回っているように感じる。
僕は小学校の頃、オーストラリアのとある村でホームステイをした。そして乗馬を体験した。日本での限られた敷地内での乗馬とは違い、本当の草原を本物の馬に乗って駆け巡るというものだった。そこで駆けた草原はあまりにも広漠に感じて、この陸地の果てに陸の終わりが存在することなんて、このときばかりは信じられないほどだった。
話を戻すけれど、お風呂での思考の自由さは、その自由ですがすがしい体験を思い起こさせるものだ。やっぱり、湯船に使って身も心も緊張から解き放つことは非常に大切だなと思う。日本に住んでいると、大平原での乗馬を体験するのはなかなかに困難だけど、自由な思考で駆け巡るためのリラクゼーション施設はたくさん存在するのだ。自宅のお風呂とか、近所のスーパー銭湯とか。
👆 ゆのっちの背後に「不確かさ」の影が!?
*1:シュレディンガーの猫 で有名な「重ね合わせの原理」
ステキ発見 No. 4: キリン 本搾り
どうも僕です。ご無沙汰してます。久しぶりとはいえ、カレンダーが 9 月を示しているのはさすがにおかしいですよね。まだ 6 月くらいのはず。暦のバグでしょうか?まあそれは置いといて、今回はリハビリがてらちょこっと文章を書くことにしました。
僕はもともとお酒をほとんど飲まない人種だったのですが、なぜか最近は毎晩飲んでいます。大人とは、やはりそれなりにストレスがあれば、自然とアルコールを求めるようにできているのでしょうか。
というわけで、今日は大好きな缶チューハイの紹介です。
スーパーマーケットで購入できる缶チューハイの中ではこれが最高!
驚異の果汁 45 %! 原材料は「オレンジ」と「ウォッカ」のみ!
市販の缶チューハイって、果汁は 1 桁台で、なおかつ人工甘味料が使われていることが多いんですよね。ローカロリーを謳っている商品は特に。そういう商品を飲んでいて感じるのが不自然な甘ったるさ。甘さではなく甘ったるさ。人工甘味料が有害か無害かより、僕は単純に味が気になってしまいます。
僕の感覚では、サントリーの「196℃ストロングゼロ」はその傾向が強く不自然な甘さを感じ、対してキリンの「氷結」は自然な味わい。だから、僕はキリンの商品を好んで買っています。そのキリンチューハイの中でも「本搾り」は果汁感にあふれ、市販品とは思えないくらい自然な味わいで大満足です。
他にもキリンは「ビターズ」といった秀逸なラインナップを出していますね。僕はビールや焼酎、日本酒はどれも苦手なので、そんな僕でもお酒を楽しめる商品を多く展開してくれるキリンには頭が上がりません。
チューハイって いいね 😇
ステキ発見 No. 3: Pray for Someone (だれかのために祈る)
他人のために祈ることは、最も手軽な他者貢献のひとつだと思う。コストは全くかからないし、何の見返りも求めずに済む。自分のために祈られて嫌な思いをする人はいないだろう。そして、ほんのひとときでも心の底からその人のために祈ることで、祈る側の心も満たされる。むろん、その祈りが届けば、さらなる喜びに満たされることになるだろう。
人生はゴーヤチャンプル
ふと愚痴をこぼしたくなり Twitter に書き殴ろうとしたが、すんでで思いとどまった。こういうときは、たいてい人生を複雑に考えすぎているか、視野が狭窄しているかだ。じゃあ人生をシンプルに考えてみようじゃないか。
そこで即座に閃いた。「人生はゴーヤチャンプル」であると。
懊悩はゴーヤだ。その苦味はすぎれば毒となるけれど、適度であれば実に味わい深い。悩み苦しむことは、生きている証であり実感なのだ。
幸福は卵と豆腐だ。卵のようにほのかに甘く、優しい触感で僕を包み込んでくれる。幸福とは抱擁なのだ。しかし豆腐のように脆く、永遠に続くことなどありえない。だからこそまた、味わい深いのだ。
人間関係はランチョンミートだ。人生において人間関係はあまりに重要で避けては通れない。その主張の激しさはまさにスパムミートの味の濃さ。そして時にしょっぱい。
それらをごちゃまぜにチャンプルってることが、人生の混沌さを物語っている。ゴーヤチャンプルはだれかの悟りの境地の果てに生まれた料理なのかもしれない。
人生にゴーヤチャンプル以上の複雑さは存在せず、仮に複雑そうに思えてもあくまでゴーヤチャンプルでしかない。その苦味も甘みも旨味も塩辛さも、すべてを深く味わうことで、それが明日への活力 (スタミナ) となるのだ。
今日は暴食したのに、またお腹が空いてきた。ああ、この空腹も生きているからこそ感じられるのだ。そう思うと全てが愛おしい。
ゴーヤチャンプル食べたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/arapro7/10951218.html
↑ おいしそう (゚p゚)