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変色系男子の日常。

買い物バグ

どうも僕は買い物に関するバグを抱えているようだ。精算後に商品をレジにそのまま置いていってしまうことが多い。そして今日はその逆で、商品を受け取り精算も済ませたのに、まだ何かしらの処理が残っていると勘違いして、レジの前に居座ってしまった。これまた恥ずかしい。

証明における Q.E.D. (Quod Erat Demonstrandum: かく示された、証明終了) と同様の語句が、買い物におけるおいても存在すると仮定する。買い物終了。僕はこの S.E.D をどのタイミングで示すべきかの判断が著しく苦手なようだ。処理途中で示してしまうこともあれば、示しあぐねてしまうこともある。

これは何かの障害なんだろうか。でも、別に障害だろうが障害でなかろうが、そんなことはどうでもいい。事実困っているし、しばしば恥ずかしい目に合うし、こういった問題が生じないように毎回意識することも難しい。

今日、靴下を買った後にレジに立ち尽くし、一人だけ時間の静止した世界を生きてしまったので書いた。参ったね。

チキンチリ

世の中にはさまざまなチキンがいる。形而上学的チキンと非形而上学的チキン。慎ましいチキンと軽率なチキン。そして、生きたチキンと死んだチキン。

 

今日出会ったのは、死んだチキンの中の調理されたチキンというサブカテゴリにある「チキンチリ」と呼ばれる存在。昼の華味鳥で出会った。穏やかに陽の沈みゆく北欧の夕暮れのように赤くきらめくソースをまとっている。そして、ソースのとろみがチキンの柔らかさを引き立てている。

 

チリと言葉には辛いイメージがあるが、辛みと呼べるものはほとんど沈みきっていた。むしろ、わずかな辛みの残滓が、チキンに備わった甘味を引き立てていた。甘いチキンの周りには、これまた甘くてジューシーな野菜が色とりどりに添えられていた。夕暮れの後に待っている賑やかな夜会の始まりがそう遠くないことを思わせる。華味鳥というレストランには、たくさんの明るいイメージや予兆を料理に乗せて提供してくれる、すばらしい場所だ。

主人公がコールガールと寝るシーンで泣いた話

村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいる。2 回目。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

今までの人生の中で最も感動した小説だったのを覚えている。だから、村上春樹の長編 (今日発売されたばかりの「騎士団長殺し」を除く) をコンプリートした直後に、また読み始めた。

主人公が中学の同級生でイケメン俳優の五反田くんの家を訪れる。五反田くんはふたりのコールガールを呼び、それぞれ女の子とセックスをするシーンがある。僕は電車の中でそのシーンを読んでいて、思わず涙がこぼれた。主人公が娼婦と寝るシーンを読んで、感動のあまり泣いてしまうような小説が他にあるだろうか。

それは同窓会のような集まりだった。文化的雪かきと官能的雪かき。それは雪のたっぷり積もり、しんと静かな朝にふたりで行う本当の雪かきを連想させた。朝日が白い絨毯を照らして、あたりはきらきらと輝いている。その雪かきは多義的なメタファーであるとともに、実際的な雪かきでもあるんだ。そういう様子を連想して、深く感動してしまった。

ちなみに「騎士団長殺し」を読むのはだいぶん後になるだろう。「NieR:Automata」をプレイしなくてないけないし、「ニンテンドースイッチ」の発売日も近い。娯楽の予定がたくさん詰まっていることはとてもいいことだ。なぜなら、生きていくうえで退屈というのは無味無臭の劇薬だから。

華味鳥と奇跡的なチキン竜田について

今、僕が語るべきことはそう多くないと思う。筆舌を尽くして語るべきはたったひとつ。そう、華味鳥のチキン竜田のことについてのみだ。

華味鳥 は水炊き料理のチェーン店だ。僕の勤めている会社のオフィスのすぐそばに店舗があるため、気の合う同僚たちとランチによく通っている。しかし、そこで食すのは水炊き料理ではない。水炊きのランチは手頃な値段ではない。それは、お金と時間にある程度めぐまれた専業主婦が、優雅なひとときをすごすために通うランチの値段だ。かわりに、僕たちは定食を食べる。華味鳥の定食は量が多くて美味しい割に値段はそれほど高くない。非常にコストパフォーマンスに優れている。しかも食後のコーヒーまで無料でついてくる (無限に使える無料コーヒー券を、なぜか同僚が所持している) 。

華味鳥には通常のランチメニューに加え、週替りの定食メニューが存在する。今週は「チキン竜田」だ。華味鳥には長く通っているが、週替り定食としてハズレと呼べるものが出されたことは一度たりともなかった。そして、今日のチキン竜田は群を抜いて美味しかった!

特筆すべきはその衣だ。カラッと香ばしく揚げられていることがわかる、こんがり色の衣。それを口に運ぶと感じられる驚異的なサクサク感。まるで、どこまでも空気の透き通った真冬の朝に、新鮮な霜を足で踏みつけたときのような爽快さがそこにはある。

実は月曜日にも既にこのチキン竜田を味わっていた。しかし、今日のチキン竜田は、さらに美味しさと衣のサクサクさが増していたような気がするのだ。だから語らずにはいられなくなった。そして、軽妙な食感とそのグレードアップは、何かよいことの予兆を感じさせてくれて、気持ちまで爽快にさせてくれた。

これが定番メニューだったらなとも考えた。でも、よく考えなおすと、この幸せは一期一会という制約の上に成り立っているのではと思った。定番メニューとなれば、ありがたみは薄れてしまい、そこから見出した予兆は失われてしまう。またいつか、このチキン竜田と出会えることを祈って、今の幸せを精一杯享受することにしよう。それがいい。

最後に。「唐揚げ」と「チキン竜田」と「ザンギ」の違いに詳しいマエストロがいたら、私のところに来なさい!以上!

望まぬ蓄え

この冬、僕のお腹が着実に肥えている。厳しい寒さを理由に、いつもの日課である帰宅時のウォーキングをさぼっているせいだ。このだらしのないお腹は、行き場のない在庫を抱える暗い倉庫を連想させ、ときおり僕を悲しい気持ちにさせる。

今、いくつかの種類の動物は冬の長い眠りについている。生き残りを賭け、越冬のために蓄えた栄養を切り詰めて消費しながら。その一方で、この僕はどうだろう。何の危機感も抱かずに温かな場所でふんぞり返り、あまつさえ、ぶくぶくと肥え太っている。これを体たらくと呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。

今はまだポケモンジュゴン のように、優しいふくよかさを備えたお腹だ。しかし、油断するとそれは、あっという間に トドゼルガ へと変貌してしまうだろう。その太さにもはや優しさと呼べるものはなく、残るのは悲しい暴力性だけだ。

しかし、僕はこりずに明日の昼も 華味鳥 へ向かうのだろう。週に 3 回以上はここに通っている。親切で気の利いた店員さんに案内され、柔らかで味わい深い鳥料理をバクバクと食らうのだ。ああ、人間の進歩の無さというのはなんとも度し難いものだ。

ちなみに、この文章は 乳酸菌ショコラ アーモンドチョコレート を食べながら書いた。しかも、歯磨きもデンタルフロスも終わった後で。なんということだ。

読者

読書は食事とよく似ている。まず、目で咀嚼し、そこにある知識や情景、暗示を読み取る。次に、胃と似ているが異なるしかるべき器官で消化する。そして、吸収に適したフォーマットに変換されたなんやかんやが、血流に乗って身体中に巡っていく。最終的には多くが脳に残留することになると思うが。不要になれば記憶の枠外に排出される。わずかな残りかすを残して。

心の井戸をうつす歌

最近、ミスチルの「蒼」が好きで、よく聴いている。お世辞にも明るい歌とはいえない、いやありていにいえば、彼らの歌の中でもかなり暗い部類だ。しかし、この歌に含まれる強烈なメッセージ性や憂いのあるメロディに引き込まれずにはいられない。そして、不思議なほどの熱量の共感がこみあげてくる。

 

僕と同じような意見をインターネット上でもよく見かける。ブログだったり YouTube のコメント欄だったりで。事実、ミスチルは人々の共感を誘う歌をたくさん生み出し、数十年もの間、ファンの心をつかみ続けているが。なぜミスチルは人々の心の内を見透かしたような歌を生み出し、多くの共感を得るのだろうか。

 

世界には多種多様な人間が存在するが、人間である以上、根幹はさほど変わらないのだと思う。深層心理の底に巨大な井戸があって、それを世界中の人々で共有しているようなイメージだ。その井戸には水のかわりに人間の共通項とも呼べる何かがある。ミスチルは、その井戸の中身を照らし出す能力に長けているのだと思う。内省的な姿勢を持って、その中身をためつすがめつする。それも色々な視点から色々や方法で。歌ひとつひとつがその観測の結果だろう。

 

ミスチルの歌だけでなく、小説家が紡ぐ物語、いや人間の創作物のほとんどが似たようなものだと思う。彼らの創作物を通して、僕らは自分の深層心理の一端、ほんのごく一端を垣間見るのだ。