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変色系男子の日常。

お風呂にまつわる 2 つの洞察

久しぶりにブログを書こうと思った。なぜなら、入浴中にふと、ある考えが頭をもたげたからだ。いくつかの思考の素粒子がたまたま寄せ集まって生まれたのかもしれない。ふとした拍子で頭のなかから消えてしまいそうだったので、それらの粒子が空気中に拡散してしまわないうちに文章に書き留めておこうと思った。お風呂上がりに、よく冷えたウォッカトニックを飲みながら。


「複数の状態が重ね合わさっている」という状態があり、観測することでそれらの状態が 1 つの状態に収束するという理論*1がある。これは、観測者のいない状況下では「複数の状態が重ね合わさっている」ということであり、つまり、何かしらの不確かさが確かに存在しうるということだ。

何が言いたいかというと、僕がシャンプーをしていて目をつぶっている間に、何かしらの不確かさが存在しうるということだ。無限の可能性たちが、休日のショッピングモールで遊びまわる子どもたちのように、無秩序に存在して、うじゃうじゃと不規則に動き回っている。そういうカオスな不確かさが。そして、その不確かさは、僕が目をつぶっている間にしか存在できないのだ。

だから僕はシャンプーハットなど被らない。彼らの命が 1 ミリ秒でも長く保たれるなら、僕はお湯やシャンプーが目に入ってしみてしまう、そんなリスクを負うことすらいとわない。


湯船に使っているときが 1 日で最も思考がクリアな気がする。目覚めの良い朝も、しっかりと覚醒した日中も、こんなにくっきりとした思考は得られないと思う。ただ、よく観察してみると、クリアというよりは自由という表現の方が適切な気がする。思考があらゆる緊張から放たれて、脳内を超えて自由に飛び回っているように感じる。

僕は小学校の頃、オーストラリアのとある村でホームステイをした。そして乗馬を体験した。日本での限られた敷地内での乗馬とは違い、本当の草原を本物の馬に乗って駆け巡るというものだった。そこで駆けた草原はあまりにも広漠に感じて、この陸地の果てに陸の終わりが存在することなんて、このときばかりは信じられないほどだった。

話を戻すけれど、お風呂での思考の自由さは、その自由ですがすがしい体験を思い起こさせるものだ。やっぱり、湯船に使って身も心も緊張から解き放つことは非常に大切だなと思う。日本に住んでいると、大平原での乗馬を体験するのはなかなかに困難だけど、自由な思考で駆け巡るためのリラクゼーション施設はたくさん存在するのだ。自宅のお風呂とか、近所のスーパー銭湯とか。

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👆 ゆのっちの背後に「不確かさ」の影が!?

*1:シュレディンガーの猫 で有名な「重ね合わせの原理」