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変色系男子の日常。

🧬「若いなぁ」の再帰的構造について

30 歳という年齢に何か特別な意味合いがあるのだろうか。30 歳を超えると何か致命的なものが損なわれて、2 度とは戻らないことを実感するような何かが。

20 台後半から同年代が自分のことを「おじさん」「おばさん」と卑下しだす。自然とそう呼称するのなら何も耳障りなことはないけれど、ネガティブな意味を込めて卑屈に発言されるとちょっと気に触る。もちろん、同年代ゆえに自分のことを否定されているような気持ちが芽生えるのかもしれない。

会社に来ているフレッシュでやる気のあるインターン生。読書会に来る好奇心旺盛な大学生。彼・彼女らを見ると、やっぱり反応的に「若いなぁ」と感じてしまう。ふと差し込んだ朝日に思わず目を狭めるように。そして急に年をとった気分になる。結局は僕も自分の年齢を卑下する人々に属しているんだ。認めよう。こんな文章を書いている時点で。

しかし、自分が他人から「若いなぁ」と言われる場面も少なからずある。読書会などの集まりに顔を出すと、年齢が一回り以上上の人たちと接することも多いから。最近も親しい人に「○○くんは若いよ」と言われたことがあった。そんなに年齢が離れているわけでもないけれど。そして別のあるとき、カフェにいたときだったか。がやがやとした喧騒のなかでふと、老年の男性たちの立ち話が聞こえてきた。どうやら彼らはゴルフ好きのようだ。60 台の男性がそう年の離れていない別の男性にこう言っていた。「××さんは若くて羨ましいよ」。

このセリフをふと思い出したとき、ピンときた。「若いなぁ」という感嘆の声は無限に複製されていて、あらゆる世代に存在しているんだと。言う側は言われる側に回り、その構造はフラクタル模様をなしている。

そしてひとつの結論が導き出される。それは 今この瞬間が一番若い ということだ。今この瞬間が人生において最もみずみずしく、輝いている。今まさにこの瞬間も失われている「若さ」を無駄にしている時間はない。だからといってこの瞬間にすべてを投げ出して旅に出るわけではないけれど、まあ年齢に対して執着することもないでしょう。

最後にショーペンハウアーの僕の大好きなとある文章を残して終わろう。悲観的な彼のイメージが覆るほどに輝かしい金言だ。

今冷やかに見過しているこの現在、一刻も早く去ってしまえばよいなどといらだたしく後押ししても追い払ってしまいたいこの現在が、かりにも我慢のなる程度のものならば、たとい日常平凡の現在であっても、それはあの神々しい過去のなかへ今まさに移りゆこうとしているのであって、神々しい過去のなかに繰りこまれた後には恒常不滅の光明に包まれて末ながく記憶にとどめられ、後日、ことに苦難にのぞんで、記憶がその帷をかかげるとき、切実な憧れの対象となって現われるのであろうということを、いつもいつも肝に銘じて、この現在に敬意を払うようにするがよかろう。

アルトゥール・ショーペンハウアー『幸福について―人生論―』より