✲゚。.ヾ(⌒(ノ'ω')ノ☆.。

変色系男子の日常。

憂鬱と遠藤周作とメタファーについて

久々に心の臓を握りつぶすような憂鬱が来て、今日は会社を休んだ。昼間に見た、忍者スナイパーになった夢が、やけに心地よかった。遠くからスナイパーライフルで敵を射撃し、先端に鉤爪のついたワイヤーで颯爽と移動する。そんな忍者スナイパー。

以前、同じように憂鬱に蝕まれていたとき、たまたま読んだ遠藤周作の「悲しみの歌」に癒やされたのを思い出した。話自体は非常に退廃的で悲しいものなのだが、どこか心を平穏にする作用があった。だから今回も遠藤周作の作品を読んでみようと心に決めた。そして夜に「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。」という作品を読んだ。

悲しみの歌 (新潮文庫)

悲しみの歌 (新潮文庫)

タイトルだけだと「何の本やねん!?」という印象しかないが、これはよい文章、特に誰かに送るための文章の書き方を指南する本だ。その概要や感想は今回の趣旨から外れるので省略する。

この本の中で著者はとあるゲームを提案していた。それは極めて簡単なもので、「○○のような夕暮れ」の○○に入る言葉を考えてみるというものだ。つまりメタファー (比喩) を考えるということだ。ただし「燃え盛る火の玉」のように、誰でも思いつくような例えや使い古された表現は NG だ。あくまでオリジナリティを追求するのが、このゲームの目的だ。これは、よい文章を描く秘訣のひとつに「使い古された決まり文句を使わない」ことが挙げられていることに関係している。

村上春樹にハマって依頼、そういうメタファーを考えることが大好きになったので、このゲームはすごくいいなと感じて印象に残った。まさか気の利いたメタファーを考えることが、よい文章を書くことに繋がるとは。行き詰ったピクロスの解法がふと思い浮かんだときのように、自分の中で色々と繋がった気がして、気がつけば憂鬱はかなり薄れていた。憂鬱に対する特効薬のひとつは没頭だね。

奈落の底と DEEP-FURIGANA

「メイドアインアビス」という漫画が大好きで、Kindle 版と紙の本の両方を買っている*1

この漫画は、主人公のリコという少女が謎の機械仕掛けの男の子レグと「アビス」と呼ばれる巨大な縦穴を冒険する物語だ。このアビスは未知であふれていて、凶暴なモンスターや過酷な環境により、数々の冒険者が命を落とした過酷な場所だ。漫画に登場する可愛らしいキャラクターたちは、読者をたまらなく魅了し、緻密な描写でファンタジーの世界に没入させる。それでいて、シリアスかつ残酷なシーンも相当多く、それがまた過酷な冒険に深みを与える。

作品の紹介はこれくらいにしよう。この作品で僕が気に入ってるものがある。それがかっこいいルビの使い方だ。

アビスでは数々の遺物、いわゆるアーティファクト的なアイテムが発掘される。そしてそれらには特性に応じた名前が付けられる。

f:id:quanon:20170104224720j:plain

時を止める鐘(アンハードベル)決して切れない糸(スタースレッド) など、とにかくかっこいい ✨✨

特に僕が一番気に入っているのは、5 巻に登場するとあるキャラクターが所持している 明星へ登る(ギャングウェイ) だ。あまりにクールなネーミングに、なんだか心臓がくすぐられるような感覚を覚える。

ちなみに、このような特殊なルビ、つまり本来の読み方とは別の単語を振る手法は、海外では DEEP-FURIGANA と呼ばれているらしい。これは賞賛や驚きというよりは、日本語を学ぶ外国人を困惑させることから付けられた異名のようだ。これまたおもしろい。

togetter.com

確かに漫画って DEEP-FURIGANA を駆使しているよなと、改めて感じるまとめ記事だった。筆頭はやはり絶対時間(エンペラータイム) 😇 厨二最高 😎

*1:「メイドアインアビス」と「ハクメイとミコチ」だけは、あまりに好きすぎて、Kindle 版と紙の本の両方を買っている。小説も含めると「安達としまむら」も。

強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい強くなりたい

f:id:quanon:20170103221937j:plain

「強くなりたい……」といえば、響け!ユーフォニアムの第 12 話を思い出す。あれはいい話だった。

ポケモンぷよぷよスプラトゥーンも、対人戦でなければ気楽にできるものだけど、ひとたび人と戦うとなると、途端に厳しいゲームとなる。今挙げたゲームに共通するのが、レーティング戦 (インターネット対戦) が存在することだ。レーティングと呼ばれる強さの数値がある初期値から始まり、対戦に勝てば数値が上がり、負ければ下がるのだ。

今インターネット対戦にハマっているポケモンでも、初期数値からなかなか上昇しない。勝率が 5 割とちょっとなので。レーティングを伸ばすには、7 割 8 割、さらにトッププレイヤーになるには 9 割以上の勝率を維持しないといけない。スポーツの世界と同様に、ゲームの世界も非常に厳しいのだ。ポケモン対戦で勝率を伸ばすには、ひたすら経験を積み、知識をつけ、ポケモンの強さや型 (同じポケモンでのパラメータと技の組み合わせ)、相手の行動を予測することが必要になる。最近インターネットで対戦動画を見ていて、相手の行動予測のみならず、自分の勝つまでの道筋をしっかりと考えておくことが重要だと分かった。勝ち筋をとらえ、負け筋を潰すのだ。ポケモン対戦は本当に奥が深いので、動画を見るだけでも楽しい。

ゲームなので最初はもちろん楽しいのだが、ただゆるゆると対戦を繰り返していても、いずれはモチベーションが途絶えてしまう。あれだけ楽しかった対戦が、まるで賽の河原のような無限地獄と化す。ここで大切なのは、やはり「このゲームが好きだ」という気持ちだと思う。「好きこそ物の上手なれ」というのは日常でも仕事でもゲームでも、あらゆる場面で真理なのだ。そもそも好きでないのなら、不毛なインターネット対戦に打ち込む必要もないしね。

仕事も娯楽も、あらゆる面で通じていて、もはやその境は存在しないのではとたまに思う。有能になりたいし、成長したいし、強くなりたいし、そしてなによりも楽しみたい。

サンムーンのポケモンで一番安定して活躍してくれているのは、ウツロイドちゃんかな。この子、本当に優秀 💖
嫌いなポケモンはカプ・コケコとボーマンダギャラドスです 👎

曇天とおばちゃんと正月について

今日は 1 月 2 日。ちょっとした買い物のために天神に寄った。

空はどんよりと曇っており、あまり正月らしさは感じられない。しかし街は初売りで人がごった返していて、晴れやかでないあいにくの天気模様とのミスマッチが気になる。嵐の前に昆虫が大量発生している様を連想した。

正月でも天神の郵便局は営業していた。入り口でおばちゃんがひっそりと年賀はがきを売っている。暖房器具は足元のハロゲンヒーターのみで、なかなか肌寒そうだ。その表情は決して暗くはないけれど、親戚が実家に集っている中、自分だけなぜ働いているのかと、心中は不満に思っているのだろうか。正月に働く喜びを感じている人をどうしてもはっきり想像できない。

正月も絶え間なく働く人たちのおかげで社会は回っている。彼らに感謝しろなんて、殊勝なことを言う気はさらさらないけれど、でもそういう人たちがいるという事実だけでも心の片隅に留めておきたいね。

--

いつものスタバ (天神のジュンク堂書店隣り) で今日は「村上春樹河合隼雄に会いにいく」を読んだ。非常に印象深い内容でそれをまとめようかと思ったけれど、どうしても気力がなかった 😪

夜を這う僕と謎の明滅について

元日の夜を車で這うように走る。あたりは暗闇と静寂にすっぽりつつまれている。まるで闇夜の冷たさにさらされたアスファルトが、あらゆる光や音を吸い込んでしまったようだ。瞳に映る風景は代わり映えがしないので、自分が進んでいるかどうか分からなくなりそうだ。しかし、山の上に光る航空障害灯の明滅だけが、しっかりと時間が生きていることを教えてくれる。

夜の峠道、山の上に点滅する謎の光。長い間その正体を知らなかったのだが、最近それが 航空障害灯 であることを知った。空を飛ぶ乗り物に対して、高い建物や障害物の存在を知らせるための電灯だ。

たぶん、今日の晩のあの時間に航空障害灯というものに対して思いを馳せていたのは、この宇宙で僕だけだろう。その孤独と誇らしさの入り混じった不思議な感覚が、少しだけ心地よかった。

会話における愛情と理解について

僕は会話が苦手だというコンプレックスを抱えている。より厳密に言えば、話しかけるのはそんなに苦手ではないけれど、会話を継続させるのが苦手だと思っている。だから、僕は「懇親会」というものが、この世で一番苦手な野菜のプチトマトよりもさらに苦手だ。

少しでも克服しようと吉田尚記さんの著書を読んだりしているが、なかなか苦手意識が拭えない。

そんな僕が、今日カフェですばらしい文章に出会った。それは昼休みに職場の近くのベローチェで、村上春樹の「回転木馬のデッド・ヒート」を読んでいたときのことだ。

回転木馬のデッド・ヒート

回転木馬のデッド・ヒート

(前略) インタヴュアーはそのインタヴューする相手の中に人並みはずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かを探り当てる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。そしてそれを探りあてることに成功すれば、質問はおのずから出てくるものだし、したがっていきいきとした記事が書けるものだ。

その文章は昨晩見たスーパームーンのように、神秘的で温かなひかりを放っているように見えた。これは村上春樹が発見したインタビューの秘訣を説明したものだけど、日常会話にも適用できると思う。吉田尚記さんも著書の中で「会話において重要なことは、たとえかりそめでも、相手に興味を持つことだ」と言っていた。確かに会話の中に、その人独自の価値観やその人の根幹をなす何かを垣間見れれば、聞き手としてはとてもおもしろいと思う。まるで、鉱脈を求めて掘り進む発掘者のようじゃないか。そして、人はたいてい自分を知ってほしいという欲求を持っているはずなので、話し手としてもこの上なくうれしいことだろう。つまり Win-Win だ。

そしてこの文章のある段落は、最後にこう締めくくられている。

それがどれほど陳腐に響こうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。

やはり大切なのは 💖 だよ!

というわけでみなさんも一緒に、普段の何気ない会話の中で、あふれんばかりの愛情と聡明な理解を発揮してみないかい?

お風呂にまつわる 2 つの洞察

久しぶりにブログを書こうと思った。なぜなら、入浴中にふと、ある考えが頭をもたげたからだ。いくつかの思考の素粒子がたまたま寄せ集まって生まれたのかもしれない。ふとした拍子で頭のなかから消えてしまいそうだったので、それらの粒子が空気中に拡散してしまわないうちに文章に書き留めておこうと思った。お風呂上がりに、よく冷えたウォッカトニックを飲みながら。


「複数の状態が重ね合わさっている」という状態があり、観測することでそれらの状態が 1 つの状態に収束するという理論*1がある。これは、観測者のいない状況下では「複数の状態が重ね合わさっている」ということであり、つまり、何かしらの不確かさが確かに存在しうるということだ。

何が言いたいかというと、僕がシャンプーをしていて目をつぶっている間に、何かしらの不確かさが存在しうるということだ。無限の可能性たちが、休日のショッピングモールで遊びまわる子どもたちのように、無秩序に存在して、うじゃうじゃと不規則に動き回っている。そういうカオスな不確かさが。そして、その不確かさは、僕が目をつぶっている間にしか存在できないのだ。

だから僕はシャンプーハットなど被らない。彼らの命が 1 ミリ秒でも長く保たれるなら、僕はお湯やシャンプーが目に入ってしみてしまう、そんなリスクを負うことすらいとわない。


湯船に使っているときが 1 日で最も思考がクリアな気がする。目覚めの良い朝も、しっかりと覚醒した日中も、こんなにくっきりとした思考は得られないと思う。ただ、よく観察してみると、クリアというよりは自由という表現の方が適切な気がする。思考があらゆる緊張から放たれて、脳内を超えて自由に飛び回っているように感じる。

僕は小学校の頃、オーストラリアのとある村でホームステイをした。そして乗馬を体験した。日本での限られた敷地内での乗馬とは違い、本当の草原を本物の馬に乗って駆け巡るというものだった。そこで駆けた草原はあまりにも広漠に感じて、この陸地の果てに陸の終わりが存在することなんて、このときばかりは信じられないほどだった。

話を戻すけれど、お風呂での思考の自由さは、その自由ですがすがしい体験を思い起こさせるものだ。やっぱり、湯船に使って身も心も緊張から解き放つことは非常に大切だなと思う。日本に住んでいると、大平原での乗馬を体験するのはなかなかに困難だけど、自由な思考で駆け巡るためのリラクゼーション施設はたくさん存在するのだ。自宅のお風呂とか、近所のスーパー銭湯とか。

f:id:quanon:20161103220455j:plain

👆 ゆのっちの背後に「不確かさ」の影が!?

*1:シュレディンガーの猫 で有名な「重ね合わせの原理」