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変色系男子の日常。

主人公がコールガールと寝るシーンで泣いた話

村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を読んでいる。2 回目。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

今までの人生の中で最も感動した小説だったのを覚えている。だから、村上春樹の長編 (今日発売されたばかりの「騎士団長殺し」を除く) をコンプリートした直後に、また読み始めた。

主人公が中学の同級生でイケメン俳優の五反田くんの家を訪れる。五反田くんはふたりのコールガールを呼び、それぞれ女の子とセックスをするシーンがある。僕は電車の中でそのシーンを読んでいて、思わず涙がこぼれた。主人公が娼婦と寝るシーンを読んで、感動のあまり泣いてしまうような小説が他にあるだろうか。

それは同窓会のような集まりだった。文化的雪かきと官能的雪かき。それは雪のたっぷり積もり、しんと静かな朝にふたりで行う本当の雪かきを連想させた。朝日が白い絨毯を照らして、あたりはきらきらと輝いている。その雪かきは多義的なメタファーであるとともに、実際的な雪かきでもあるんだ。そういう様子を連想して、深く感動してしまった。

ちなみに「騎士団長殺し」を読むのはだいぶん後になるだろう。「NieR:Automata」をプレイしなくてないけないし、「ニンテンドースイッチ」の発売日も近い。娯楽の予定がたくさん詰まっていることはとてもいいことだ。なぜなら、生きていくうえで退屈というのは無味無臭の劇薬だから。

華味鳥と奇跡的なチキン竜田について

今、僕が語るべきことはそう多くないと思う。筆舌を尽くして語るべきはたったひとつ。そう、華味鳥のチキン竜田のことについてのみだ。

華味鳥 は水炊き料理のチェーン店だ。僕の勤めている会社のオフィスのすぐそばに店舗があるため、気の合う同僚たちとランチによく通っている。しかし、そこで食すのは水炊き料理ではない。水炊きのランチは手頃な値段ではない。それは、お金と時間にある程度めぐまれた専業主婦が、優雅なひとときをすごすために通うランチの値段だ。かわりに、僕たちは定食を食べる。華味鳥の定食は量が多くて美味しい割に値段はそれほど高くない。非常にコストパフォーマンスに優れている。しかも食後のコーヒーまで無料でついてくる (無限に使える無料コーヒー券を、なぜか同僚が所持している) 。

華味鳥には通常のランチメニューに加え、週替りの定食メニューが存在する。今週は「チキン竜田」だ。華味鳥には長く通っているが、週替り定食としてハズレと呼べるものが出されたことは一度たりともなかった。そして、今日のチキン竜田は群を抜いて美味しかった!

特筆すべきはその衣だ。カラッと香ばしく揚げられていることがわかる、こんがり色の衣。それを口に運ぶと感じられる驚異的なサクサク感。まるで、どこまでも空気の透き通った真冬の朝に、新鮮な霜を足で踏みつけたときのような爽快さがそこにはある。

実は月曜日にも既にこのチキン竜田を味わっていた。しかし、今日のチキン竜田は、さらに美味しさと衣のサクサクさが増していたような気がするのだ。だから語らずにはいられなくなった。そして、軽妙な食感とそのグレードアップは、何かよいことの予兆を感じさせてくれて、気持ちまで爽快にさせてくれた。

これが定番メニューだったらなとも考えた。でも、よく考えなおすと、この幸せは一期一会という制約の上に成り立っているのではと思った。定番メニューとなれば、ありがたみは薄れてしまい、そこから見出した予兆は失われてしまう。またいつか、このチキン竜田と出会えることを祈って、今の幸せを精一杯享受することにしよう。それがいい。

最後に。「唐揚げ」と「チキン竜田」と「ザンギ」の違いに詳しいマエストロがいたら、私のところに来なさい!以上!

望まぬ蓄え

この冬、僕のお腹が着実に肥えている。厳しい寒さを理由に、いつもの日課である帰宅時のウォーキングをさぼっているせいだ。このだらしのないお腹は、行き場のない在庫を抱える暗い倉庫を連想させ、ときおり僕を悲しい気持ちにさせる。

今、いくつかの種類の動物は冬の長い眠りについている。生き残りを賭け、越冬のために蓄えた栄養を切り詰めて消費しながら。その一方で、この僕はどうだろう。何の危機感も抱かずに温かな場所でふんぞり返り、あまつさえ、ぶくぶくと肥え太っている。これを体たらくと呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。

今はまだポケモンジュゴン のように、優しいふくよかさを備えたお腹だ。しかし、油断するとそれは、あっという間に トドゼルガ へと変貌してしまうだろう。その太さにもはや優しさと呼べるものはなく、残るのは悲しい暴力性だけだ。

しかし、僕はこりずに明日の昼も 華味鳥 へ向かうのだろう。週に 3 回以上はここに通っている。親切で気の利いた店員さんに案内され、柔らかで味わい深い鳥料理をバクバクと食らうのだ。ああ、人間の進歩の無さというのはなんとも度し難いものだ。

ちなみに、この文章は 乳酸菌ショコラ アーモンドチョコレート を食べながら書いた。しかも、歯磨きもデンタルフロスも終わった後で。なんということだ。

読者

読書は食事とよく似ている。まず、目で咀嚼し、そこにある知識や情景、暗示を読み取る。次に、胃と似ているが異なるしかるべき器官で消化する。そして、吸収に適したフォーマットに変換されたなんやかんやが、血流に乗って身体中に巡っていく。最終的には多くが脳に残留することになると思うが。不要になれば記憶の枠外に排出される。わずかな残りかすを残して。

心の井戸をうつす歌

最近、ミスチルの「蒼」が好きで、よく聴いている。お世辞にも明るい歌とはいえない、いやありていにいえば、彼らの歌の中でもかなり暗い部類だ。しかし、この歌に含まれる強烈なメッセージ性や憂いのあるメロディに引き込まれずにはいられない。そして、不思議なほどの熱量の共感がこみあげてくる。

 

僕と同じような意見をインターネット上でもよく見かける。ブログだったり YouTube のコメント欄だったりで。事実、ミスチルは人々の共感を誘う歌をたくさん生み出し、数十年もの間、ファンの心をつかみ続けているが。なぜミスチルは人々の心の内を見透かしたような歌を生み出し、多くの共感を得るのだろうか。

 

世界には多種多様な人間が存在するが、人間である以上、根幹はさほど変わらないのだと思う。深層心理の底に巨大な井戸があって、それを世界中の人々で共有しているようなイメージだ。その井戸には水のかわりに人間の共通項とも呼べる何かがある。ミスチルは、その井戸の中身を照らし出す能力に長けているのだと思う。内省的な姿勢を持って、その中身をためつすがめつする。それも色々な視点から色々や方法で。歌ひとつひとつがその観測の結果だろう。

 

ミスチルの歌だけでなく、小説家が紡ぐ物語、いや人間の創作物のほとんどが似たようなものだと思う。彼らの創作物を通して、僕らは自分の深層心理の一端、ほんのごく一端を垣間見るのだ。

ふたりの自分とそのバランスについて

軽はずみな言動を後悔することがしばしばある。ふと心に思いついたことが、僕の中で厳正な審査を経ることなく、勢いそのままに口から飛び出してしまうのだ。それを後から、数秒後のこともあれば数日後のこともあるのだが、猛烈に悔いる。「ああ、間違っていた。なんであんなことを言ってしまったのだろう」と。発言したときはそれが世界の真理のように感じ、はつらつとした気持ちだったのに。このように、向こう見ずな僕が払った代償を内省的な私が背負うという構図をたびたび目にしてきた。

しかし、内省的な私はふと思った。あのときあの瞬間に正しいと思ったのならば、悔いる必要なんてあるのだろうかと。月にも光の当たる面と当たらない面があるように、その発言にも見方によって、見る地点によって、明るい面と暗い面があるだけではないだろうか。

例えば、誰かに失礼なことを言ってしまったと後悔することがある。しかし、発言それ自体ではなく発言の仕方にちょっとした問題があって、相手の精神を逆撫でしてしまっただけではないだろうか。無骨だけど味のあるブリキのおもちゃを、包装紙に包みもせずに相手に投げ渡すように。ちょっとこじゃれたオブラートにラッピングして、気の利いた言葉を一言添えて渡してあげれば、印象は大きく変わったのではないだろうか。

軽はずみな僕は、いつもよく考えてくれる内省的な私を信頼する。そして、内省的な私は、軽はずみな僕の言動も別に間違いではないと認めてあげる。そうすることで、少しずつだけど、自分のバランスが保てるようになってきた気がする。マクロな視点でもミクロな視点でも、世界にはバランスが必要なのだ。

街の目立たない定食屋さんの活躍について

今日は飯塚に出勤した。僕がこの地に赴いたときに最も困るのが、お昼ごはんの選択肢の少なさだ。昼休みを迎えるたび、同じ CM を何度も何度も見せられるときのようなうんざりした気持ちに陥って気が重くなる。

ところが、今日の昼はついに新しい風が芽吹くことになった。同僚の提案で、始めての定食屋に行ってみることにしたのだ。会社から車で 5 分程度の場所にある、少々うらぶれた外観のお店だ。

スライド扉を開けると、こじんまりとした店内は、それなり数のお客さんで埋まっていた。内装は以前は焼き鳥屋だったかのような様子で、細長いカウンターと奥に小さな座敷が 2 テーブル。カウンター席は 7, 8 割がた、薄汚れた作業服あるいは少しくたびれたスーツをきたおじさんで埋まっている。座敷は 2 人のおじさんが専有していたが、団体客の僕らが来たのを見て、すぐに座敷を譲ってくれた。気のいい人たちだった。

僕以外はみな、ワンコインの定食を頼んでいたが、僕は +150 円でチキンカツ定食を注文してみた。この少しの差額がクオリティの明暗を大きく分けると直感したからだ。そしてこの直感が功を奏した。運ばれてきた定食には、一般的な家庭で作られたような小ぶりで無秩序にうねったカツたちが盛り付けられていた。かなりのボリュームだ。僕の前に座っていた後輩たちのうらやましそうなまなざしが痛い。

見た目はいたって普通だが、口に入れると非常に柔らかくてジューシーで面を食らった。これは高級な食材を使っているせいではなくて、料理人の熟練した腕によるものだと思う。そして、カツに含まれる作り手の優しさと、偶然この店に足を運んだ僕を朗らかに歓迎してくれる何か不思議な存在。それらがミステリアスに調和して味覚に作用するのを感じたのだった。

店を出ると、心に巣食った暗澹は姿を消し、清々しさが入れ替わりにやってきた。僕の知らないところでこういう素敵な定食屋さんが粛々と料理を提供して、人々の胃袋を満足させていることを知って、少しだけ感動した。食べログに口コミのひとつも載らないほどひっそりとしたお店。そういうお店たちがたくさんの人々の原動力となって、この世界を支えているのだ。